大元の原因まで遡ると、小学生以前の話になってしまう。
組織に属して上手く立ちまわることができない、それを自覚することを決定づけたのは大学時代だ。
とりあえず、同学年、同学科の友人は5年間(一留してます)の間、ついぞ出来なかった。友人ができない理由は簡単、基本根暗で活動的でもないからだ。講義は隅の席で昼寝する時間だった。
しかし、大学には研究室というモノがあり、通常なら嫌でも同じ研究室の輩と繋がりを持つものである。
私も研究室に一度は属したが、2ヶ月ともたず辞めた。教授に「もう限界です、やめます」という旨のメールを送り、それきり研究室棟に足を運ぶことはなかった。教授から返信メールが来ているのは確認したが、中身を見るのが怖くて、ついにそのメールを読むことは無くパソコンの代替わりによって闇に葬られている。
ここで大学を出た人なら不思議に思うであろう。大学の学士課程を修めるには卒業論文と発表を行う必要があるのではないか?
これは、巡りあわせが良かったのか悪かったのか、私のいた学科では「単位卒業」といって、研究室に属して卒業論文を書かなくても、通常より多めの単位を取得すれば卒業要件を満たす、というシステムがあった。4年生の時点ですでに余剰な単位を持っていた私には渡りに船だったのだ。一年留年して、専門学科の単位を抑えれば卒業は容易かった。
卒業式には参列しなかった。どうせ周りは知らない人ばかりだし、大学では恩師とよべる人物との出会いもなかったのだ。
閑話休題、なぜ私は研究室を辞めたのか?
明確な答えは自分でも解らない。ただ、人が集まるその場所へ行くことが苦痛だった。ほんの2ヶ月程度とはいえ、機材の使い方を習い、人前で実験結果のプレゼンもした。それら自体は決して難しいことではなかったし、卒業を見据えるなら単位卒業よりよっぽど楽で、卒業後の箔もつく。
ただただ、研究室へ足を運ぶことが苦痛になった。人の視線が刺さった。
見下されるのが嫌だったのだろうか。誰も見下している訳ではないのに。もうこの頃には自分のやりたいことを見失って人生の迷走を始めていた。
好き勝手に遊ぶのは大好きだ。
だが、人生を好き勝手に選べと言われたら、私は動けない。
道標が無いと、私は一歩を歩み出せない。
「好きなようにやってみろ」というのは、「その場で立ち尽くして死ね」と同義だ。
死にたくなくて、闇雲に動いて、自分の首を絞める。
大学で何も得なかった(サークル活動によって得た物は非常に有意義であったが、それさえも自分の手で壊す有様だ)。心の傷口だけを、深く広く切り裂いていった。
結果、三十路手前、無職。社会的には死んだほうがマシな人物である。
生きていて良いことも沢山あったのに。
生きていることが、辛い。
わたしは自分が無能すぎて死にたくなります。
人間のごみです。
でんさーんω;`
なんだか名前を呼びたくなりました。お酒入ってるので許してくださいw
一緒に乾杯しましょうω・´
本当に無能な人だったら自分でそんなこと言わないよ・・・と。
かんぱーい